1975生まれ。東京在住。1997年、女子美術大学芸術学部絵画科洋画専攻卒。2001年トーキョーワンダーウォール審査員長賞。2002年以降、文化庁新進芸術家在外研修員、ポーラ美術振興財団在外研修員としてNYやトルコに滞在、NYでは6年間生活する。ポーラミュージアム アネックスで開催された個展「その光に色を見る Spectrum of Vivid Moments 」(会期:2022年4月22日〜2022年5月29日)では「日本における女性の生き方、作家としての生き方を歴史と共に見直し未来につなげていきたい」という想いから制作された「女性作家の色の跡シリーズ」ほか、新作の数々が会場に並びました。
生命の有限性と色の輝き
流さんは「生と死の境界」に注目した理由を「1999年の地震で被災したトルコへの支援プロジェクトに関わった経験や、2011年の東日本大震災をきっかけに立ち上げたプロジェクト『一時画伯』で子どもたちと被災地に訪れた際に、自然の美しさや力強さには自然災害といった畏怖が含まれているから感じるものがあり、それを表現していくことが自分の制作のテーマになった」と言い、「数年前に父を看取ったときに、自然の緑の色や太陽の光を強く感じたことがあった。友人や近しい人の死を間近に迫ると、視覚的な感覚の変化がある。そういった気づきをアーティストとして表現する必要性を感じた」と、語ります。
流さんの中で、「亡くなると天へ昇っていく西洋のキリスト教の死生観と違い、日本には彼岸と此岸があり、川や海を越えてあちら側の世界に行く」という感覚があると言います。「In Between」(2019-)は、「そういった境界線のない、グラデーションを丁寧に描きとろう」という衝動をもとに描き始めたシリーズなのだとか。
このシリーズのコンセプトについて、流さんは自身のホームページで、「死が身近にある時、人は自分が有限であると実感し、この世はとてつもなく美しく見える。自死を決意した芥川龍之介が遺稿『或旧友へ送る手記』の中で、『只自然はかく云う僕にはいつもよりも一層美しい』と語り、その自らの視線を『末期の眼』と表した。自らの死が迫っておらずとも、近しい人の死に直面した時も同様の視線を得ることがある。自分の終末を意識し、生を実感する。」(一部抜粋)と瑞々しい言葉を紡ぎ、説明しています。
生きた色を重ねる
「色彩の画家」と呼称される、流さん。絵の具は混色せずにキャンバスに載せていきます。
「ペインターの多くはパレットで顔料を混ぜてオリジナルの色を作り描いていきますが、私はそのまま塗り、重ねていくことで豊かな色彩を表現していきます。そうするとそれぞれの色の命が息づいているような感覚があり、逆に混ぜてしまうとその中に色が閉じ込められてしまう気がするのです」
薄くのばした絵の具が何層にも重なっていくことで出せるテクスチャーがあると言います。
「土由来の顔料であればキャンバスに土の粒がひっかかるような軌跡が残ります。色がもともと持っている特性をキャンバスの上で生かせるように、色自体がオーガニックに発色することを見極めています」
こうした流さんの色への関心は、人が持つ色彩の感受性に対しても向かっています。宗教的な価値観や生活に根付く感覚の違いなど、色の感じ方は、住む国や地域によって違いがあるのだとか。
現在の日本の色を探るプロジェクト「日本の色」にも参画している流さんは、日本人は色を情緒的に捉える傾向があると言います。江戸時代には身分制度で身につけられる色が限られていたので、その限られた茶色と灰色だけでも四十八茶百鼠という言葉が生まれるほどのバリエーションの工夫があり、色文化からその感性を見て取ることができると指摘します。
日本の日常にアートを広める
流さんは制作の傍ら、アートに触れる機会のない子どもたちにアートを届ける非営利団体「一時画伯」の活動も行なっています。
「一生のうちに一度も美術館に行かないような人がいます。美術館で子ども向けのワークショップなどを開催しても、アートにアンテナを張っている親御さんが応募して参加されるため、来るのはもともとアートに接したことのあるお子さんが多い。私は一生のうちに一度もそういった経験をしない子のために何かしたいと思いました。そこで身近にアートがないところにアートを持って行こうと、被災地の避難所や施設でワークショップを行ってきました」
さらに、アートを特別視する日本の習慣も変えたいと言い、そういった願いもあってブランドとのコラボレーションやパブリックアートの制作も精力的に行なっているのだとか。
「生活の中に絵画を飾ったり、ふらっとアートを観に行くような文化が、日本にも浸透してほしいと思っています」
そう真摯に語る流さん。話す言葉の端々にもプリズムのように光彩を放つ感性が宿っていました。
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