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黒田征太郎の哲学 「描くことは、命について分かろうとすること」

1939年大阪生まれ。1961年に早川良雄デザイン事務所に勤務。1966年にニューヨークへ渡米。1969年に帰国し、長友啓典さんとデザイン事務所K2を設立。福岡県北九州市にアトリエを構える画家、イラストレーター、グラフィックデザイナーの黒田征太郎さんにお話しを伺いました。


黒田征太郎さん

作ることが何より好き。そして「なぜ好きなのか」を知りたいから描く

ライブペインティングや壁画制作、絵話教室、ホスピタルアートなど国内外で精力的に幅広い活動を続ける黒田さん。


「『なんでそこまでやるの』と聞かれることもあるけど、作ることが何より好きなんです。そして僕自身、なぜ絵が好きなのかがはっきりとは分からない。むしろそれを知りたいという想いがあるんです」


インタビューを受けている今も絵を描いているという黒田さんは「やっぱり面白い」と続けます。


「画商と組んで売れる作品を作るとか、そういう描き方は面白くない。50年も続けたわけですからアーティストの世界を知らないわけではないけれど、そういうことは知りたくないし、描くことを面白いと思うところに留めておきたいという気持ちがあります」


作品と一対一で向き合う黒田さんですが、制作には多くのアーティストや文化人との交流が大いに関係していると言います。



体の中にひらめきが走った 「僕は絵が描けるんだ」

「そもそも絵って一人で作れるものではないでしょう?」と話す黒田さんは、「僕は人との出会いに恵まれている」と穏やかな愛溢れる口調で語ります。また「野坂昭如さんをずっと好きでいたことは、僕にとってラッキーなことだった」と話します。


なかでも黒田さんが野坂さんの著書『戦争童話集』を絵本化し映像化したことは特に強く印象的だったと言います。


「『戦争童話集』は命の話。人間以外の動物は食べるために狩りで他の動物を殺しますが、人はなぜ、戦争という殺し合いをするのか。人は生まれて死ぬだけの生き物、というのが野坂さんの考えなのです」


『戦争童話集』を知ったのは、黒田さんが52歳の時。

「当時、総理大臣だった小渕恵三さんが『戦後50年が経った。戦争のこと以外を発信していきましょう』と話していて『なぜ?』と感じました。そんなときにニューヨークの紀伊国屋書店で、野坂さんの『戦争童話集』に出会ったのです」


当時ニューヨークで、国連の職員の子どもが通う学校の仕事をしていた黒田さんは、小学生に「戦争のことは習っているの?」と尋ねると「当たり前じゃないか」と答えたと言います。


「日本の子どもたちは、このままでは戦争のことを知らないまま育ってしまうかもしれない」と危機感を抱いた黒田さんの頭に『戦争童話集』が浮かび、啓示のような考えがひらめきます。


「僕の体の中に『絵本にしろ』という信号が来たんです。『そうか、僕は絵が描けるんだ』と」


そして1955年に阪神・淡路大震災が発生。「命に関わる大災害が起き、野坂さんと僕も、現地に向かったんです。命のことですから。」野坂さんには、命の考え方について大きな影響を受け、黒田さんの考え方にも大きな影響を受けたと言います。


「今、絵を描くことや音楽を演奏することは、命のことを人が分かろうとするための行為だと考えています」と語る黒田さん。絵のほかに夢中なことを尋ねると「生きること」だと教えてくれました。



自然が絵や音楽のことを教えてくれる

黒田さんは現在、ライフワークのひとつとして行ってきたライブペインティングを通じ、子どもたちに描くことの楽しさを伝えることに関心があると話します。


「絵と音楽の面白さを気付かせてあげたい。この思いは先ほど話した『描くことは、人が命のことを分かろうとすること』という考えに通じています」


さらに「自然をよく見ていれば、絵や音楽のことを教えてくれているような気がしてならないんです。今も顔をあげたら対岸に山々が見えて、その向こうに入道雲が広がっています。さらにその向こうには関門海峡があるのですが、僕には日本有数の橋と言われる関門海峡でさえも、ひ弱なものに見えてしまう」と、話す黒田さん。


「太陽がなければ何も見えないし、絵画は太陽が作る七色の虹から色を知って描くものです。楽譜は風や波の音に官能してできる。どんな偉大な芸術家の作品も、自然のもとに生まれたんです。子どもたちともそんな話をできたらと思っています」と、締めくくりました。


命の輝きを放つ人間讃歌のような黒田さんの作品は、自然や人への敬意を失わない作家の感性や哲学から生まれるのだと実感させられた瞬間でした。

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