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奥田透の人生から見る“日本料理“の可能性

GINZA KOJYU x GINZA OKUDA x Le SUSHI OKUDA


日本食普及の親善大使として世界遺産である和食を海外で牽引し続ける銀座小十の奥田透さん。グルマン大国フランスで凛とした佇まいの美しい和食の世界観や食文化を発信するその情熱や料理に対する姿勢についてお話を伺いました。

奥田透さん

人生の可能性に懸けて

銀座 小十

中学生の頃の奥田さんは小学校の先生を夢見ていました。「勉強だけを重視する学歴社会への反発心からだった」と当時を振り返ります。「どんな子どもにも”たくさんの可能性”があるはず。」という強い想いが、いつしか奥田さんにとって”教師になる”という明確な目標になりました。


しかし高校へ入学し、あるときから勉強が全く分からなくなり、大きな挫折を味わいました。そこで将来への思いを巡らすこととなり、見つけた仕事は“料理の世界”でした。「料理の世界はやればやっただけ自分のものになり、たくさんの可能性を秘めていると感じた」と言います。「美術や技術・工作は誰よりも下手で、モノを作るということは一番苦手な分野でした。しかし、人生は苦手なものを克服するために時間があるのではないか。それを、自分の仕事を通して証明していこう。」これが、当時わずか16歳の奥田さんが考え抜いた心象でした。


奥田さんの抱く学歴社会への反発心も相まって「どんなに恵まれた人生を歩んだ人や、勉強で、よい就職を果たした人とも対等に話ができる大人になりたい。勉強で挫折はしたけれど、人として劣っているとは一度も思ったことがない。」という強い想いから「料理の世界で成功する」と自分に言い聞かせ、日本料理の厳しい修業の日々へ足を踏み入れました。


“日本料理”に見た世界

奥田さんが厳しい修業の末に地元静岡に“花見小路”というお店で独立を果たしたのは29歳になった年です。飲んで食べて5000円の居酒屋さんからのスタートでした。その評判は瞬く間に広がり、日々満席の大盛況でした。なんと予約が取れず、何年も来店が叶わなかったお客さんもいると言います。そんななか、「修業時代に教わった本格的な懐石料理のお店を出す」という夢を捨てきれず、33歳の時に今も名を馳せる“銀座 小十”をオープンさせることになりました。開店した当初は「2〜3か月は全くと言っていいほどお客さんが来なかった」と振り返り、4年後にはミシュランガイドの三ツ星の栄冠を得ることなど当時は想像もつかなかったと言います。

ミシュランガイドが日本へ初上陸した第一回、当時37歳の奥田さんへ「銀座 小十」が三ツ星を獲得したと連絡を受けます。当時のことを奥田さんは「なぜ自分の店が三ツ星に…という気持ちと、日本料理の良さを伝えなければという勝手な使命感に駆られました。それと同時に今後の日本料理1 と日本の伝統・文化 2が失われてしまうのではないかと強い危機感を感じました。なぜなら国内では、若い料理人はフランス料理やイタリア料理や洋菓子、ワインのソムリエなど、海外のものに大きく関心を持ち、料理雑誌・情報雑誌も含め、海外のもので溢れる事が日常になってきたのです。このままでは、日本の素晴らしいものが次第に衰退しまうのではと強く懸念していました。日本料理と日本文化を海外へもっていかなければ、新たな可能性を見出せないのではないかと。」ミシュランガイドの三ツ星獲得という、この栄冠をきっかけにして、奥田さんの軌跡のコンパスはフランス・パリへ導かれることとなります。


“世界料理”への道

「美食と芸術の都、パリに本格的な日本料理店を。」目的のすべては、奥田さん自身の成功ではなく「世界料理と称されるべき日本料理を広め、後進にたくさんの道を作りたい。」その一心でした。海外の食材でも、おいしい日本料理を作ることで日本料理が“世界料理”になれると奥田さんは確信していたのです。「世界のフランス料理と同じ土俵で競い合わないと日本料理の魅力を感じてもらえない。フランスで日本料理の魅力を昇華させたら、日本の伝統・文化のすばらしさも伝えることができる。」その気持ちは大きくなるばかりでした。


「まず、海外へ本格的な日本建築を持って行きたかった。なぜなら、日本建築には日本が培ってきた伝統的な美意識の素晴らしさが、たくさん詰まっている。」海外の材木とデザイナーではどこかジャポニズム的なものになってしまう。そのため店の建築には日本の材木、日本人デザイナー、日本の職人を連れて本格的な店舗建築から始めたと奥田さんは当時を振り返ります。日本の器やお椀も欠かさず、パリへ携えたのです。「最も重要なのが人材です。スタッフは長く日本料理を極めた料理人を連れていくことにしました。もちろん、食材も追及し続けました。」いかに奥田さんが人生だけでなく、日本料理に”たくさんの可能性”を確信していたのか、想像に難しくないでしょう。

Le SUSHI OKUDA

フランスで“活締め”を浸透させた先陣

奥田さんがパリに開いた魚屋”ポワソネリ・シンイチ”

今やフランスでも“活締め”はメニューに書かれるほどに浸透しています。しかし、奥田さんが訪れた当時のフランスに活締め文化はありませんでした。「日本では人が関われば関わるほど食材をより良い方向にもっていく繊細さがあります。日本では当たり前にできることを、もっと世界に伝えなければ。これが変えられたら世界の料理が変わる。」活締めの講習会を、シェフや漁業関係者を呼んで何度も開いた奥田さんは“日本料理”を通してフランスの食材に命を吹き込んでいったのです。


フランスで今まで活締めがされなかった一番の原因は“傷物は売れないから”。活締めをすることでどれだけ身質が良くなるか、ということをずっと奥田さんは伝え続けてきました。「重要なのは血を抜くことだと。こんな単純なことが伝わらなくて、恐ろしく大変でした。」と振り返り「世の中は誰かが0から1にしないと何も始まらない。私の性格的にも誰かが踏んだ足跡は踏みたくなかった。」伝えられてくることのなかった“活締め文化”。先陣を切ることの苦悩に勝る、奥田さんの勇ましく強靭な情熱の大きさを計り知ることはできません。


「他のジャンルの料理も鮮度の高い魚があればよりシンプルに、さらにおいしくなって素材や季節をより感じられるようになります。バターやクリーム、油や調味料、香草も今とは違う仕組みになり、どの料理ももっとたくさんの可能性を見出せると思うのです。」奥田さんの成し遂げた偉業は、もはや“日本料理の料理人”の域を超えた功労なのです。


「私の海外での活動を見て、若い人たちにも世界中の色々な所に行って“日本料理”と“日本文化”の素晴らしさを浸透させて行って欲しいと思っています。」


奥田透さんが独自に切り拓いて昇華させてきた”日本料理”という世界、そしてたくさんの可能性にあふれる道。そこには日本が誇る伝統と文化、日本料理への熱い想い、後進へ明るい未来を魅せる大きな導きの証が刻まれていました。そしてその勢いは、とどまる所を知りません。


 

GINZA KOJYU銀座小十

〒104-0061

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東京都中央区銀座5-4-8 4F

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