映画はどこに立つのか: 第76回ベルリン国際映画祭、その現在地
- 2月21日
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ベルリン、2026年2月
冬の冷気が街を引き締める。低い空、湿った石畳、トラムの軋む音。その静かな緊張の中で、第76回ベルリン国際映画祭(Berlinale)が2月12日から22日まで開催された。
ベルリンの映画祭は、華やかな祝祭というよりも思考の場に近い。1951年、冷戦の只中に創設されたこの映画祭は、分断と再生の記憶を内側に抱えている。2026年の世界情勢を背景に、その記憶は決して過去のものではなかった。

映画は中立であり得るのか
開幕直後、国際コンペティション部門の審査委員長を務めたヴィム・ヴェンダース(Wim Wenders)の発言が議論を呼んだ。映画と政治の距離をめぐる言葉は瞬く間に広がり、作家アルンダティ・ロイ(Arundhati Roy)が参加を取りやめる事態に発展した。
しかしベルリンでは、対立は沈黙を生まない。上映後の質疑応答やフォーラムでは、「物語ることは立場を持つことなのか」という問いが繰り返された。映画は現実から距離を置くことができるのか。それとも、スクリーンに映すという行為自体がすでに応答なのか。ベルリナーレは結論を提示しない。ただし、その問いを共有する空間を守り続ける。

コンペティションの現在地
オープニング作品は、アフガニスタン出身のシャフルバヌー・サダト(Shahrbanoo Sadat)による『No Good Men』。誇張を排した語り口の中で、ジェンダーと社会構造の緊張が静かに浮かび上がる作品だった。
金熊賞(Golden Bear)は、イルケル・チャタク(İlker Çatak)の『Yellow Letters』に授与された。制度の圧力のもとで崩れていく夫婦関係を描く本作は、劇的展開よりも持続する不安を重ねていく。日常が徐々に狭まっていく感覚を映し出すその視線は、ベルリンらしい選択だった。

銀熊審査員大賞はエミン・アルペル(Emin Alper)の『Salvation(Kurtuluş)』に。主演賞はザンドラ・ヒュラー(Sandra Hüller)が『Rose』で受賞し、抑制の効いた演技で深い印象を残した。脚本賞はジュヌヴィエーヴ・デュルド=ド・セル(Geneviève Dulude-De Celles)の『Nina Roza』へ。内面の変化を丁寧にすくい取る筆致が評価された。

性別を区分しない演技賞は、今や特別な制度ではなく自然な前提となっている。評価の基準は、あくまで表現の密度と精度だ。
名誉金熊賞という時間
開幕式で最も温かな拍手を浴びたのは、名誉金熊賞を受け取ったミシェル・ヨー(Michelle Yeohだった。
香港アクション映画から国際的共同制作、そしてハリウッドへと活動を広げてきた彼女の歩みは、映画の越境性そのものを体現している。『Crouching Tiger, Hidden Dragon』の静かな強さ、『Everything Everywhere All at Once』の奔放な変容。その両極を自在に行き来してきた。
ベルリンが彼女を顕彰したことは、単なる功労賞ではない。世界映画の構図が変化し、アジアの俳優が中心的存在として認識される現在を象徴する出来事でもある。スピーチで語られた「暗闇を共有する時間」の意味は、ベルリンという都市においてとりわけ重みを持って響いた。

都市とともに続く映画
会場であるベルリナーレ・パラスト(Berlinale Palast)の外では、黒を基調とした落ち着いた装いが目立った。派手さよりも構築美。ベルリンの美意識は常に抑制の中にある。
映画祭は劇場の中で終わらない。カフェでの議論、書店でのトーク、夜遅くまで続く対話。ベルリナーレは都市に埋め込まれた文化実践である。
光が消えた後に
第76回ベルリン国際映画祭は、大きな答えを示すことはなかった。その代わりに、問いを残した。
映画は世界の裂け目を避けるのか、それとも引き受けるのか。
冬のベルリンで、人々は暗闇の中に座り、光を見つめた。その共有された時間のなかで、不協和と美は静かに並び立っていた。


