上海の田園に佇む、安藤忠雄のコンクリート建築「嘉源海美術館」
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外灘から北西へ車で約1時間。環状道路を抜けて嘉定区へ入ると、都市の風景は水田や棚仕立ての葡萄畑、低い農家へと移り変わる。その地平線に、幾何学的なコンクリートの建築群が姿を現す。安藤忠雄が上海で手がけた最新作、嘉源海美術館だ。
ここには壮麗な広場も、都市のスカイラインもない。美術館は、今なお農の営みが続く田園風景のただ中にある。春には青い苗が伸び、夏には葡萄がたわわに実り、秋には稲穂が黄金色に染まる。ここで流れる時間は、展覧会のスケジュールだけでなく、作物の季節にも呼応している。

葡萄の町、馬陸
嘉源海美術館を知るには、まず、その舞台となった嘉定区馬陸鎮について触れておきたい。馬陸は40年以上にわたり、葡萄の産地として全国的な評価を築いてきた。栽培が始まったのは1981年。当時の常識に反し、長江以南でも良質な葡萄を育てられると考えた地元農家の挑戦が出発点だった。現在では120を超える品種が育てられ、「馬陸葡萄」は中国の地理的表示(GI)商標に登録されている。美術館が建つ大裕村は今も主要産地であり、家族経営の葡萄園や灌漑水路が広がり、隣には葡萄をテーマにした公園もある。
この場所が選ばれたのは偶然ではない。美術館は農村振興事業の一環として馬陸鎮政府の出資により建設された。その構想には文化的な意義と同時に、明確な地域政策としての視点がある。芸術は都市に集中する必要はなく、現役の農村風景そのものが、単なる背景ではなく文化的な営みを育む舞台になり得る、という考えだ。
Courtesy at Jiayuanhai Art Museum
建築
約6年に及ぶ設計・建設期間を経て、美術館は2023年末に一般公開された。その計画の源流はさらに古く、嘉定区が10年以上前に打ち出した「芸術馬陸(Art Malu)」構想にまで遡る。嘉定区における安藤の建築としては、上海保利大劇院に続く2作目であり、資料によっては中国で7番目に完成した建築ともされる。
意匠はひと目で安藤建築と分かる一方、表現は抑制されている。型枠の木目を残す打放しコンクリートによる二つの独立した直方体が置かれ、一方は公共・イベント空間、もう一方は展示室として構成される。両棟をつなぐ階段状の広場は、田園に向かって開く劇場のような役割も果たす。大きなガラスのカーテンウォールが内と外の境界を曖昧にし、池や空、作物の景色が展示空間に映り込む。館内に設けられた複数のトップライトからは、安藤の「光の教会」を思わせるように、時の移ろいとともに変化する光が差し込む。
屋上テラスの円形の開口部は、展示室へと伸びる十字形の光井戸の頂部に当たる。彫刻であり、同時にトップライトでもあるこの造形は、自然光そのものを建築へと変える安藤らしい手法だ。テラスからは、四方に広がる田畑と葡萄畑を一望できる。嘉定でも屈指の眺めと言ってよいだろう。

美術館を支える思想
嘉源海美術館は、その理念を「フィールド」という言葉で語る。それは周囲に広がる稲田や葡萄畑だけを指すのではない。記憶や思考を耕し、一度の訪問で完結するのではなく、季節を重ねながら新たなものを育てるための「場」でもある。この考えは、19世紀以来、上海が培ってきた異文化の交差する国際的な芸術的アイデンティティ、「海派文化」を軸とする美術館にふさわしい。
開館以来、プログラムは幅広く展開されてきた。開館記念展では、20世紀の海派絵画・書を俯瞰する展覧会と、安藤自身の建築に捧げる展示を同時開催。翌春の「Dialogues」では、代表作「光の教会」と「住吉の長屋」を原寸大で再現し、その歩みを振り返った。また、著名な海派画家・陳佩秋(チェン・ペイチウ)の常設ギャラリーも設けられ、コンクリートの空間に差し込む自然光とともに展示の表情が変化するよう設計されている。
2025年末には、第15回上海ビエンナーレの市内会場の一つとして、本展会場の上海当代芸術博物館(Power Station of Art)と連動する展覧会の拡張版を開催した。2026年春には、侯瀚如(ホウ・ハンルー)のキュレーションによる上海のアーティスト、靳山(ジン・シャン)の新作コミッションを発表。テクノロジーの圧力にさらされる身体をテーマに、この空間のために制作された大型インスタレーションが展開された。展覧会はおよそ3カ月ごとに入れ替わり、2026年夏以降は毎夏、デザイン展を開催する予定だ。
現在開催中の展覧会
現在開催されているのは、これまでとは趣を変えた同館初の産業デザイン展であり、上海の公立文化施設としても初の試みとされる。リッキー・ラウのキュレーションによる「ある日、素敵な椅子を見た(The Day I Saw a Handsome Chair)」は、椅子をデザインの対象であると同時に、社会を映す記録として捉える。
椅子はこのテーマに格好の題材だ。日常に溶け込み、普段は意識されないほど身近でありながら、テクノロジー、製造、エルゴノミクス、美意識、社会的行動が交わる場所に存在している。本展は150年以上にわたるその歴史を辿り、最も古い作品は1859年に遡る。この年、曲木のカフェチェアが工業家具生産の原型を形づくった。会期は2026年10月18日まで。
Exibition View, Courtesy at Jiayuanhai Art Museum
展示室の先に広がるもの
この場所の魅力は展覧会だけにとどまらない。1階には、嘉定区の「我嘉書房」構想を取り入れた閲覧室があり、アート、デザイン、人文分野を中心に約1万冊を所蔵している。上海市共通の図書館利用証があれば、誰でも借りることができる。上階には、ハンドドリップコーヒーや軽食を提供するカフェがあり、ガラスに囲まれた空間から田園を望める。ミュージアムショップでは、展覧会限定品やアーティストによるデザインアイテム、嘉定の地域性を生かしたプロダクトを扱う。
Courtesy at Jiayuanhai Art Museum
アクセスと楽しみ方
嘉源海美術館は上海中心部から車で約1時間。美術館だけを訪れるのではなく、一日をかけて周辺を巡るのがおすすめだ。水田のあぜ道を歩き、隣接する葡萄公園に立ち寄る。季節が合えば、大裕村で葡萄狩りを楽しむこともできる。春には稲の苗が伸び、秋には稲の収穫と葡萄の季節が重なる。
近年、上海では農村振興の一環としてアートと文化を活用し、展覧会や建築によって都市の周縁部へ人や投資、関心を呼び込む動きが進んでいる。しかし、嘉源海美術館は少し異なる。ここでは農村が文化を一方的に受け入れるのではなく、むしろ文化を生み出す源となっている。光、地平線、作物の季節、そして美術館を支える大地そのものが、この場所の表現を形づくる。年に二度、周囲の田畑は実際の収穫を迎える。上海で、そう語れる美術館は決して多くない。


